2005年12月16日

●仰木監督に仕事の原動力をもらいました。ありがとうございました。

親友と酒を飲むと、必ずといっていいほど、
話す10.19の話を。

仰木監督のご冥福をお祈りします。

=====================================

1988年10月19日。

それは、野球ファンであれば、誰しもが知っている一日ではないでしょうか


俗に、「ジュッテンイチキュウ」というその日は、
今年、球団としての幕を閉じた近鉄が、
ニュースステーションを通して、全国放送をされた日であることを、鮮明に憶えています。

あの弱小球団近鉄が、当時、憎たらしいくらい強すぎる西武を超え、パリーグを制覇できるか
どうかが決まる最終戦でした。その約1ヶ月前の9月15日時点では、残り27試合で6ゲーム差。

その後、9月16日から10月5日までの12試合で11勝1敗。

しかし、10月7日から10月19日までは、13日間で15連戦という殺人的なスケジュールでした。


しかし、近鉄は10月7日から16日までの11試合を8勝3敗。
つまり、9月16日から10月16日までの約1ヶ月間で、23試合で19勝4敗。なんと勝率0.826.

この時点で、ライバル西武は全日程を終了し、0.5ゲーム差まで迫っていました。
正に驚異的な追い上げで、奇跡を感じさせる近鉄の気迫。

毎日毎日のスポーツニュースが、「もしかしたら、近鉄が。なんとか、追いついてくれ。」
という祈りが、届きそうな所まで、間違いなく近鉄は来ていました。

残り4試合。
その一つ目の試合は負けてm
ゲーム差は1.0に広がってしまった。

しかし、次の試合は勝ち、再びゲーム差を0.5に縮めます。

残りは、2試合。
連勝すれば、近鉄の逆転優勝。

1試合でも、負ければ、いや引き分けでも、西武の優勝。
最後の最後の、2試合は、弱小ロッテとの川崎でのダブルヘッダー。
それが、「10月19日」でした。

その10月19日。

第一試合。
8回表。近鉄の攻撃。3対1で、近鉄が2点負けている。
しかも、ダブルヘッダーの第一試合は、延長戦には入らないというルール。
つまり、近鉄は、何がなんでも、残り2回の攻撃で、逆転し、
勝利を掴み取らなければならない。

その8回。近鉄は、2点をもぎ取り、ロッテに追いつきます。

そして奇跡を信じて、同点で迎えた、9回表の近鉄の攻撃。
先頭打者オグリビーが倒れてしまいます。

ここで代打ベテランの淡口がレフトフェンス直撃のヒット。
代走として佐藤が淡口に変わる。

続く、打者鈴木がレフト前ヒット。
「佐藤が返って、勝ち越し」と、思った矢先、佐藤はホームと3塁の間に挟まれ、タッチアウト。

2アウト2塁と、あと1アウトで、近鉄の優勝は夢と消える・・・

ここで代打ベテラン梨田。この前年、引退を決意していたが、仰木監督に慰留され、
引退を1年延期していた。
そして、梨田の一振りは、ふわりと浮かびフライになり、万事休す、かと思いきや、
センター前にポトリと落ちた。

セカンドランナー鈴木が、決して俊足とは言えない、足を必死に前に進めている。
全速力で、ホームに帰って来た。そして、転がるように、ホームイン。

待ち構えていた、中西ヘッドコーチと抱き合う。
ベンチのメンバーも、ベンチを出て来て飛び上がる。
抱き合う。4対3.近鉄勝ち越し。

2塁ベース上では、梨田が、人生初のガッツポーズ。

その裏、近鉄は、2アウト満塁のピンチを迎えます。
しかし、エース阿波野が、初めてのリリーフに上がり、これをしのぎ切ります。

近鉄ベンチ、近鉄ファン、歓喜に湧きかえっていました。
奇跡が近づいた!

この時点で、西武とのゲーム差なし。
しかし、勝率の関係で、首位は西武。

この頃、球場は3万人の大観衆。
ロッテ川崎劇場と言われるくらい、グラウンドが盛り上がることはなく、
閑古鳥のなくスタンドで、観客がいちゃついたり、飲んだり、遊んだり・・・
そんな自由気ままだった、川崎球場のスタンドの満員の観客は、試合に釘付けになっていた。

場外にもファンが溢れ、入り切れないファンが、近くのマンションの屋上に集まり、
人だかりができていた。


そして、運命の第二試合。最終戦が始まります。

勝てば、近鉄優勝。引き分けでも、西武の優勝。

2回にロッテに1点を先制されるものの、
6回に1点を取り追いつきます。
そして、7回表、2点を取り、3対1と、近鉄が2点をリード。優勝は目前!

しかし、その裏、7回のロッテの攻撃。2点を取られ、同点に追いつかれてしまいます。
引き分けでも、優勝はない。
しかし、続く8回、ブライアントの1発で、近鉄1点のリード。

ここで、近鉄は勝負に出ます。

第一試合でも、リリーフに出た阿波野を再度マウンドへ送ります。

あと6人、アウトを取り、0点に抑えれば、近鉄の優勝。

8回裏のロッテの攻撃、阿波野は先頭打者を抑え、あと5人で優勝。

続く、ロッテの4番高沢。阿波野の6球目のスクリューボール。
高沢の一振りは、低い弾道で、レフトに飛ぶ。「まさか。頼む、入らないでくれ」と思った。

ボールはレフトスタンドに吸い込まれ、4対4。

「うそだろ。そりゃないだろ。」と日本中の誰もが思ったのではないでしょうか。

しかし、まだ9回の攻撃が残されています。

先頭バッターの大石が出ます。
しかし、あとが続かず、得点なし。

9回裏、ロッテの攻撃。ヒットを打たれ、ピンチを迎えます。
しかも、ここで、ロッテの有藤監督の抗議。

当時のパリーグのルールは、試合時間が4時間を超えたら新しいイニングには入らない。
この抗議が長引けば長引くほど、近鉄の攻撃のチャンスが減ってしまいます。

解説者でさえも、「抗議したって、最下位に変わりはないのだから、執拗な抗議はいかがかと思う」
というようなコメントまで出ました。

はっきり言って、不必要な抗議。抗議は9分間も続きました。
なお、近鉄のピンチは続く。得点されれば、もちろんサヨナラ負け。

優勝も何もあったもんじゃない。
これまでの苦労が全て水の泡と消える。しかし、ここも何とか抑え切る。

続く、延長10回、近鉄の攻撃。

しかし、無情にも、最後は、打者ベテラン羽田のセカンドゴロからのゲッツーで3アウト。
この時点で、試合時間は、3時間57分。

ロッテの攻撃があることを考えると、4時間を超えることは間違いない。
有藤監督の9分間の抗議を恨む。

事実上、この時点で、近鉄の優勝は消えた。
選手は、守備につく。みんな、顔に覇気がない。
肩を落としている。セカンドの大石が泣いている。
絶望的な選手の顔。近鉄選手の本気が、この顔から伝わってきました。

守備を終え、ゲームは4対4の引き分け。仰木監督は涙を見せず、晴れ晴れとした表情で、

「残念だが、悔いはない。涙が出るほど、嬉しかった。選手にはありがとうと言うだけです。」

とインタビューに答えたかっこよかった。


しかし、翌日の記者会見場に、仰木監督は、サングラスをつけて会場に現れた。
目は、かわいそうなほど、はれ上がっていた。

「ジュッテンイチキュウ」

今から16年も前のこと、中学3年生の時のこのシーン、感動を忘れることはないです。

そして、今なお、自分自身が仕事に求めている感動は、これを書いていて、
このようなものなのではないか、というような気がしています。




posted by 23book at 00:50| Comment(0) | TrackBack(1) | 最近のスポーツをみて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック

名将・仰木彬さん逝く。
Excerpt: 15日、福岡市内の病院で仰木彬さん(享年70)が亡くなられました。癌だったようです。 仰木さんは、西鉄ライオンズの選手として、西鉄黄金時代のメンバーとして活躍されました。 引退後は近鉄バッファロ..
Weblog: まっくのまっくりスポーツ日記
Tracked: 2005-12-16 02:25
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。