2005年08月19日

世界陸上 ― 為末に感動

親友に、今回の世界陸上はどうだった?とメールをしたみたところ、
「為末に泣いたよ」とコメント。メールもきましたので
ページにアップします。

「絶対読んで。マジ感動するから」(親友より)

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つい先日まで行なわれていた陸上の世界選手権。

終わった今、やはり記憶に残ったのは為末選手です。

しかも先日、TVで特集が流れていて、、、感動してしまいました。

レース後のインタビューでの涙。
でもどことなく、落ち着いた優しさを感じさせる雰囲気。
4年前の世界選手権での銅メダルの時は、「為末?誰それ?」って感じでしたが、
この4年間で、その活躍よりも、何かその「存在感」から、忘れることのできない、
注目の選手でした。

しかし、今回の銅メダルまでの道のりは、本当に。。。
以下に、その一端をご紹介します。


1978年広島県生まれ。身長170cm、体重66kg。
愛読書は新渡戸稲造の「武士道」。

陸上の中でも最も過酷な競技とされ、身長の大きい選手が有利とされる400mハードルの選手です。
2001年エドモントン世界選手権では、短距離・ハードル種目では五輪・世界陸上を通じて日本人初の銅メダルを獲得し、日本中を沸かせました。

当時は「結果を出して認めさせる。」ということばかり考えていたそうで、
エドモントン大会での銅メダル獲得が「陸上競技が好きだという気持ちを思い出させてくれた」
と言っています。

しかしそれ以降、思うような成績が残せずに悩む日が続きます。

そんな時。2003年7月20日。
父親の敏行さんが5ヶ月のガンとの闘病生活の後、54歳で亡くなりました。
敏行さんは死の直前、「やりたいようにやれ」ということを何度も言っていたそうです。

その言葉に背中を押されるように周囲の反対を押し切り、2003年に大阪ガスを退職。
安定した生活と別れ、プロ陸上選手となり、自ら退路を断ちました。

為末選手は言っています。
「当り障りのないコメント出している僕が嫌だったし、そんな風に生きているのも凄く嫌だった。
プロになった時が一番、何か全部吹っ切れた。
精神的に覚悟が決まるという点で、物凄く良かったかなと思っています。」


全てを捨て一人になり、倒れるまでトレーニングを行ない、
「これでいいのか」と自問自答を繰り返しました。

そうして向えたアテネ五輪。

シドニー五輪では、大会前に学生新をマークし、絶好調で臨んだ本番でしたが、
9台目を引っかけて転倒し予選落ち。「オリンピックの借りはオリンピックでしか返せない」と
言って臨んだアテネ五輪でした。しかし結果は、あえなく準決勝で敗退。

アテネ五輪の後、多くの選手が休養を取る中、為末選手は、
「失敗したからって、仕事をやめちゃいけないでしょ」と準決勝の翌日から練習を始めます。

しかし次の北京五輪で雪辱を期すためには、
今よりもっと厳しいトレーニングを積まなくてはなりません。

05年2月高地合宿を敢行。

心肺機能の強化を目的として行われる高地トレーニング。
その効果は中長距離選手に限定されるというのがこれまでの定説でした。

しかし、為末選手はその常識を覆そうとしたのです。

「もうないんですよね、手段が。平地でできることが。
アテネ前の練習は質量ともに極限に近く、これ以上ハードな練習をすれば体が壊れてしまう。

でも、高地トレーニングは1分を超える競技でないとなかなか効果がないと言われていたんです。
でも、標高2100mでの生活とは、朝起きただけで脈拍が100を超えている状態で、
肝機能とか内臓の働きが悪くなるし、トレーニングの回復も遅かったですね。
200mも走ればたちまち息が上がる。

だったらこの空気の薄い高地で練習すれば、例え練習量は少なくても、
平地以上の負荷をかけることができる。言い換えれば、膝などへの負担も軽い。

つまり、故障やケガの危険性を最小限に抑えながら、
よりハードな練習が可能になると思ったんです」

また、この高地合宿中に訪れたグランドキャニオンのあまりの壮大さに為末選手は、
ちっちぇーなー。走って吐いたくらいちっちゃいですよね。足が痛いとか腰が痛いとか・・・。
それに人間なんて、たかだか100年くらいしか生きてない。
こういうのを見たら、人間の力ではどうしようもないものもあると思うじゃないですか」と。

しかし、今年の大阪国際グランプリでは、3年間国内選手に無敗だった為末選手は、
100分の1秒差で敗れました。

そうして向えたヘルシンキ世界選手権。
決勝へは最後の準決勝8位というギリギリでの進出です。

レースの3時間ほど前から、雷の轟音と共に、雨がトラックをたたきつけていました。
一旦は中止の情報も流れていましたが、約2時間の中断の後に競技は再開されました。

そんな状況で若い選手は荷物をまとめたり、アップを始めたりと明らかに動揺していましたが、
正確な情報が流れるまで、じっと待機していたのは、
ベテランのフェリックス・サンチェス(ドミニカ)と為末選手だけ
でした。

いよいよ決勝の時が訪れます。

一旦は止んだ雨も、スタート直前で再び激しく降り始めました。

そして、スタートの時。

フライング。

若い選手たちの顔が更に険しくなり、集中力もそがれています。

やり直し。
再び一瞬の静寂。

そして、スタート!!

小細工なしの真っ向勝負。
前半から飛ばして行きます。

テレビでは会場に来ていたお母さんも写っていました。
スタートしても、下を向いて、殆ど見ていません。うつむいて祈るように。。。

そして、自らのスタイルをゴールまで貫き通し、
ゴールでは前のめりになって、最後は倒れこみながら一回転。

そして、「前転するつもりでいた。骨が折れるぐらいだったらいいやと思っていました」と
執念でメダルを奪い取りました。

片手を突き上げ、喜ぶ為末選手。泣いています。
お母さんも泣いています。
そして「あの子が本当に死ぬ気で走っているのだけはわかりました」と。

為末選手のレース後のインタビューの一部です。

Q.決勝には8位で進出でしたが、奇跡のレースでした。
為.実力的には8番だと思うんですけど、何かが起きたとしか言いようがないと思います。
根性だったと思います。

Q.4年前の銅メダルと比べて、どちらが嬉しいですか?
為。両方嬉しいですけど、4年前の銅メダルはただの嬉しい銅メダルですけど、
この4年間の苦しさが乗ってますから・・・重たいです。

Q.この4年間色々ありました。
為.父親に・・・渡せれば・・・父親に渡せれば良かったんですけど・・・
間に合わないってことはないと思うので・・・父も喜んでくれていると思います。

Q.ゴールして、お父様のことを考えましたか?
為.自分のメダルと思って走ってたら、ここまで走れなかったと思うので・・・
父のおかげじゃないかなと思ってます。

Q.4年前にメダルを獲った時、もう一つ、お父様にとらなきゃなとおっしゃってましたよね。
為.実際に渡すことはできなかったですけど、父親のためにと思って獲ったので、
僕のメダルじゃないと思ってます。

為.1%もないかなと思ってたんですけど、雨が降って、風が吹いて、グラウンドが濡れて、
とんでもないことが起きないかなと昨日から考えてたんですけど、
なにか怖いくらいに、朝からひとつひとつ当たっていって。
奇跡というか、何かが起きたとしか思えないです。

僕も7番に入れるかな?って思ってたんですけど、
レース時間が遅れたり、雨が降ったりしてきて。

その時に若い選手の心が揺れてるのが見えたので、勝負師というか血が騒いでて。
勝負賭けてみようっていって、うまくいって良かったです。

Q.最後の粘り、あなたしかできないと思います。
為.体力が残っていたとかのレベルではなくて、死ぬ気で行こうと思って。
日本人の魂としか言いようがないかなと思います。


本当にこの4年間は苦しかったんだと思います。
その先に、人前で「死んでもいい」と言えるだけの、覚悟が生まれたのかもしれません。
「死」なんて言葉を使うのは、現代では流行らないことかもしれません。
でも、なぜか、為末選手が言うのを聞いていると、
「この人。本当に思っているんだろうな。かっこいいよな。」と思ってしまいます。

それはきっと、お父さんやお母さんへの感謝の気持ちから出ている言葉だからかもしれません。
そして、不安を抱えながら、自分を信じ進んでいる決意を感じる言葉だからかもしれません。

為末選手は世界大会をこう評しています。
「お金じゃなくて、プライドを賭け合う、世界で一番大きな賭け事の場。
ちょっとのことで順位が変わるし、実力云々よりは、勝負にいたる心境みたいなもので変わる」

そして、
「死ぬ気で走る選手はいっぱいいるでしょう。
でも本当に死んでもいいと思ってるのは僕だけでしょう(笑)」
と。

本気の男は顔が違う、そしてココロが違うと思いました。

為末選手、おめでとう。
posted by 23book at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のスポーツをみて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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